今回は、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産の件です。

世界遺産に長崎・天草の「潜伏キリシタン」登録勧告 (写真=共同) :日本経済新聞

 政府に4日入った連絡によると、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本)を世界文化遺産に登録するよう勧告した。
 ユネスコ諮問機関は「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」については、推薦内容の抜本見直しを求める「登録延期」を勧告したとみられる。
 6月24日~7月4日にバーレーンで開かれる世界遺産委で正式に決まるが、諮問機関の勧告が尊重されるケースが多い。
 キリシタン関連遺産は現存する国内最古の教会の大浦天主堂(国宝、長崎市)や、キリスト教が禁じられた江戸時代にひそかに信仰を続けた信者が暮らした天草の崎津集落(熊本県天草市)など、計8市町の12件の資産で構成。政府は「禁教政策下で潜伏キリシタンが既存の社会や宗教と共生しつつ、独特の文化的伝統を育んだ」と説明している。
 政府は16年にも「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として世界遺産登録をめざしたが、内容の不備を指摘され、勧告前に推薦を取り下げた。政府は構成資産などを一部見直した上で改めてユネスコに推薦していた。

歴史的背景と世界遺産とかいうのもの因果関係は不明な分がありますので、これの世界文化遺産への登録ということについて、どっちが正しいかは分かりません。ただ言えてることとして、この文化遺産の持つ意味というものについては、きちんと理解する必要があると思います。ただ観光客が増えるからとかいう理由で、世界文化遺産に登録することに意味があるかは不明ですし、世界遺産に登録されたから、行ってみようと思う観光客がどれだけいて、そのリピーターがどれだけいるかという検証は最低限必要だと思います。

キリスタンに関する内容については、歴史的背景の認識が重要となります。このジャンルは得意ではないので、リンクを紹介しながら背景を探ることにします。

日本のキリスト教史 – Wikipedia

日本での布教活動

日本では、他の植民地化されたアジア地域と異なりヨーロッパの影響が及ばず、本国の軍事的・経済的な支援が無かった。そのため、宣教師たちはまずその土地の大名などの有力武将と会見し、南蛮貿易の利益などを訴えながら布教の許可を得ると共に、安全の確保を図った。これ以前、1543年にはポルトガルの船が種子島に難破しており、火縄銃などが伝来していた。大名は、独自に南蛮人との交易の道を模索している真っ最中であり、その南蛮との窓口になりうるザビエルたちは、来日当初、大名たちから基本的に歓迎された。
(中略)
イエズス会の宣教方針に則り、日本における宣教方針は、日本の伝統文化と生活様式を尊重すること、日本人司祭や司教を養成して日本の教会を司牧させることにおかれた。これは同時代のヨーロッパ人の、非ヨーロッパ文化に対する態度としては他に例をみないものであった。「適応主義」と呼ばれたこの指針によって日本での宣教は順調に進んだ。

豊臣秀吉とキリスト教

織田信長は宣教師たちに対して好意的であった。信長の後を継いだ豊臣秀吉も基本的に信長の政策を継承し、宣教師に対して寛大であった。
しかし、秀吉の天下統一目前の1587年、九州征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって多数の神社や寺が焼かれ、仏教徒が迫害を受けていることを知り、また、日本人がポルトガル商人によって奴隷として海外に売られていたことも理由として九州征伐完了直後、博多にて当時の布教責任者であるガスパール・コエリョを召喚し、バテレン追放令を発布して宣教師の国外退去命令とキリスト教宣教の制限を表明した。

適当な解釈となりますが、時代背景として戦国時代というのもあって、南蛮貿易などで火縄銃などの武器や貿易の利益などもあって、宣教師だったり南蛮貿易そのものについては好感的ではあったということから、基本的に表立ってはこの頃は迫害には至っていなかったと思われます。但し、貿易は貿易でも奴隷貿易もあったとされております。

ポルトガルの奴隷貿易 – Wikipedia

ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、16〜17世紀を通じ、ポルトガル人が日本で日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易が発展した。多くの文献において、日本人を奴隷にすることへの抗議とともに、大規模な奴隷交易の存在が述べられている。日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。国王セバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した。

とはいえ、表向きに中止を命令されたとしても、一部の大名などによって、奴隷貿易によって利益を得ていたとも言えるわけで、こういった事情があったことからこそ、豊臣秀吉はバテレン追放令を出したものと思われます。

バテレン追放令 – Wikipedia
バテレン追放令 秀吉がこの追放令を出した理由については諸説ある。
1.キリスト教が拡大し、一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため。
2.キリスト教徒が神道・仏教を迫害をしたため。
3.ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため。
4.秀吉が有馬の女性を連れてくるように命令した際、女性たちがキリシタンであることを理由に拒否したため。

4.については根拠がないとされておりますが、1.~3.の理由が含まれていたと見ていいと思います。
この記事は参考になると思います。



因みにですが、豊臣秀吉の朝鮮出兵についても、キリスト教というか、スペインを意識した動きともいえます。

大和心を語るねずさんのひとりごと 秀吉の朝鮮出兵

構図としては大日本帝国の時と同じで、スペインもそうなんだけど、キリスト教勢力に対して、強硬策を取らない限りは、キリスト教の宣教という口実で、内部から切り崩し工作が行われてたわけで、侵略から守るためにはキリスタンを排除せざるを得なかったというのが、当時の事情と見ていいと思います。

ここで天草の乱と言われる出来事となりますが、諸説はありますが、基本的にはキリスタンとの宗教戦争であったという説の可能性が高いと思います。でなければ、ここまでキリスタンを排除といった動きにはならないと思います。天草の乱は日本の歴史上最大規模の一揆とも言われており、それだけの戦を起こすためには資金が必要ですし、どっかの勢力による協力が背景にあったという一面はあると思います。

島原の乱と天草四郎~ポルトガルの支援を待った70日に及ぶ原城籠城戦 -戦国武将1100記事

歴史を読む・天草・島原の乱
http://sound.jp/sodaigomi/dorei/amakusa/amakusa.htm

国内要因の反発だけではなく、外国の協力という背景があったというのと、反乱のための資金作りに奴隷貿易などで資金を作ってた可能性もあるわけですね。
そういう意味では、ラスボスの天草四郎時貞説はあながち外れてないのかもしれません。。。



脱線しましたが、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」というのが、日本にとって何を意味するかということに尽きると思います。今の日本に置き換えると、京都のウトロを歴史遺産として残すのと何が違うのかよく分からない状態と思うのは自分だけですかね(笑)??そんな程度のものだと思いますよ。歴史的背景を考えるとなwww世界遺産としての意味を考えて、単純に観光客が増えるかもと思って登録するのであれば、お目出度いものの象徴になりそうな気がしないでもないです。