今日で六四天安門事件から30年が過ぎます。天安門事件について、Wikipediaを紹介。
六四天安門事件 - Wikipedia

民主化を求めるデモは、民主化支持者だった胡耀邦元総書記の死がきっかけとなった。胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に10万人の人々が天安門広場に集まった。抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989年4月15日から自然発生的に始まった。統制がなされておらず、指導者もいなかった抗議の参加者の中には、中国共産党の党員、トロツキスト、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。

デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた国中の都市に波及していった。鄧小平中軍委主席の決定により5月19日に北京市に戒厳令が布告され、武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちに対し、デモの平和的解散を促したが、学生たちの投票では強硬派が多数を占め、デモ継続を強行したため首都機能は麻痺に陥った。1989年6月4日未明、中国人民解放軍は兵士と戦車で北京の通りに移動して、デモ隊の鎮圧を開始した。

衝突のあと、中国共産党当局は広範囲に亘って抗議者とその支持者の逮捕を実行し、外国の報道機関を国から締め出し、自国の報道機関に対しては事件の報道を厳格に統制させた。戒厳令布告に反対した趙紫陽(当時)は総書記ほか全役職を解任され、2005年に死去するまで自宅軟禁下に置かれた。
きっかけとなったのは、民主化支持者の胡耀邦元総書記の死がきっかけとなりますが、背景を読み解く上で、当時の総書記の趙紫陽氏と前の胡耀邦氏についての言及は必要のように思います。

胡耀邦 - Wikipedia

趙紫陽 - Wikipedia

当時の事は以下のようにも書かれております。

因みに胡耀邦時代は、日中国交正常化後、日中関係が最も良好な時期だったのもそうだけど、当時の中国共産党は今ほど腐敗はしてなかったし、この時代だけは反日政策は取ってなかったわけです。胡耀邦・趙紫陽の時代は、中国の古くからの悪弊を取り除き、新しい枠組みを作り上げようと一生懸命だったのもあって、その当時を知っていれば、親中派というのも、そこまで変な話ではなく、財界の親中路線というのは、その当時を知っていることも理由の一つと思われます。

胡耀邦元総書記はマトモな指導者で、中国の古くからの悪弊を取り除こうとして、保守派や八老という党指導部より上の幹部によって解任させられたということと、胡耀邦元総書記を支持していた若者などが少なくなかったようです。また、趙紫陽氏も共産主義の枠を超えた経済政策を打ち立てており、若者からの人気が高く、八老からも厄介な存在となっておりました。

胡耀邦元総書記が亡くなったことで、追悼集会で民主化などを推進する勢力など、反体制派となる勢力が集まり、多くの都市に波及することになるまでは、普通のデモの流れともいえました。ここまでであれば、デモの平和的解散も可能でしたが、八老は文化大革命の時の事もあって、これを「動乱」として強硬に対処することとして、四・二六社説で、「ごく少数の人間が下心を持ち」、「学生を利用して混乱を作り出し」「党と国家指導者を攻撃し」「公然と憲法に違反し、共産党の指導と社会主義制度に反対する」といった形で、火に油を注ぐような対応を取り、デモの平和的解散の可能性を潰し、武力弾圧の対処に至ったと思います。

武力弾圧に及んだ理由は以下の記事が参考となります。
鄧小平が「六四天安門事件」で無差別殺害におよんだわけ

 鄧小平には鄧樸方の他にも子供や娘婿がいたが、彼らもまたいずれ劣らぬ不正蓄財の「名手」だったため、各々がビジネス界のトップに駆け上った。鄧小平の「先に豊かになれる者から豊かになる」の掛け声のもと、鄧の家族からその一族の遠い親類縁者までもが我先にとその恩恵にあずかった。その結果、彼らは中国でもほんの一握りのトップクラスの富裕層にのし上がった。

 ところが、89年に起きた学生運動で、学生らが腐敗に手を染める官僚らに真っ向から反対した。学生と民衆の重要な訴求の1つ「打倒官倒」が、鄧ファミリーの不正蓄財に直接的な影響を及ぼした。これを見た鄧小平が、鄧樸方らを民主化の嵐から守るために、丸腰の学生や市民を容赦なく弾圧したというのが「六四天安門事件」の真相だ。権力と既得権益、そして汚職の温床を守ることが、鄧小平に無辜の市民らへの無差別な殺戮を行わせるに至った最初の動機だった。

 鄧小平の望んだとおり、六四天安門事件以降、中国全土の政府組織に腐敗がまたたく間に広がった。最高指導者、政治局常委、政治局委員、中小省市の幹部から県や村クラスの幹部まで、その権力をフルに活用して不正蓄財にいとまがない。そうして手に入れた巨額の金は海外へと流出しているが、こうした事実は国際ジャーナリスト連盟(IFJ)の報告書や、パナマの法律事務所モサック・フォンセカ(Mossack Fonseca)から流出した機密文書「パナマ文書」といった形で明るみに出て、国際社会を驚かせている。
権力側として、権力と既得権益、そして汚職の温床を守ることが、六四天安門事件の背景であって、天安門事件を利用して、政敵の排除を行ったという、中国共産党内の権力闘争が真相ともいえます。六四天安門事件の真相は、守旧派とされる連中が、中国の民主化や改革の芽を潰して、中国共産党を魔物化させた事件であったともいえます。

犠牲者については諸説がありますが、1万人とされております。

NHKのクロ現では0人説を打ち出してるようだけどwww

・3分でわかるNHKクローズアプ現代「天安門事件での虐殺は無かった」.mpg



六四天安門事件については、以下の記事も参考になると思います。



その後の流れですが、趙紫陽の次に総書記になったのが江沢民となります。
江沢民密令「天安門事件を封殺」=大紀元「江沢民其人」抄訳

 1989年6月4日に天安門事件が起きてから、江沢民は常に恐怖と戦っている。人々がこの事件の真相を語り虐殺の責任を追及するのではないか、趙紫陽の名誉が回復されるのではないかと恐れているのだ。

 民主化を求め天安門広場に集まって(ハンガーストライキを行って)いた学生たちのもとに趙紫陽が駆けつけ、彼らに語りかけている様子を撮影した写真があるが、江が最も苦々しく感じているのは、この十数年、6月4日になるたびにこの写真が海外メディアに掲載されることだ。

 この写真は、当時の最高権力者の趙紫陽には学生たちを虐殺するつもりなどなかったことを示しているうえ、六四事件を踏み台に最高権力者の座に就いた自身の不名誉な過去を暗喩しているように感じるのだろう。

 江沢民は天安門事件の前に趙紫陽から批判されたことを忘れてはいない。だからこそ江沢民は、趙紫陽を軟禁し行動を厳しく制限していた。その執拗さは監視を担当する保安部門の人間でさえそこまでする必要があるのかと理解に苦しむほどであった。
江沢民は六四天安門事件を踏み台に最高権力者の座に就いたわけですが、若者からの人気のあった胡耀邦・趙紫陽の次もあって、その過去を消したかったというのが、自身の存在意義になったともいえます。

六四天安門事件の後、武力弾圧によって、G7による対中首脳会議の停止、武器輸出の禁止、世界銀行による中国への融資の停止などの外交制裁が加えられました。1992年のアメリカ大統領選でビル・クリントンが大統領になったのはチャイナマネーが原因の一つとされております。

こちらの記事も参考になると思います。

Electronic Journal: ●「クリントン家と中国との黒い関係」(EJ第4424号)

クリントンの当選については、湾岸戦争も理由の一つにあったと思いますが、これも石油利権に絡んだ話で、金融界隈も絡んだ話なのでしょう。

湾岸戦争 - Wikipedia

そして「中国の金」とありますが、資金の出し手がどこにあったのかと見れば、米中国交正常化の流れからみても、ウォール街の意向があったと見ていいでしょう。

当時からウォール街は中国にべったりで、天安門事件後と湾岸戦争の間のどさくさ紛れに利権を作り上げたといったところでしょう。ここで弓月氏のツイート関係に繋がります。

江沢民にとって、六四天安門事件もあって、胡耀邦・趙紫陽の路線を打ち消したかったこともあって、親日路線に傾いてたのも否定せざるを得なかったことから、反日教育を打ち出し、クリントン・江沢民体制による米中蜜月路線が固まることを意味します。

六四天安門事件というのは、権力と既得権益、そして汚職の温床を守るのが背景にあり、それが金融界隈の利権でもあったことが一つの事実ともいえます。そして反日路線を作り出したのも、日本の「失われた30年(平成)」というのも、この件が発端となっているようにも見えます。

そういう意味では、世界の混沌を導くきっかけとなったのが六四天安門事件であって、中国の反日路線を決定づけて、日米弱体化を招いた結果ともいえます。そして中国にとっても、鄧小平・江沢民路線が固まることで、その路線からの脱却が難しくなった出来事ともいえます。その結果、胡錦濤・習近平政権の足枷となっている一面もあるというのも、六四天安門事件を腫れ物にする理由になってるともいえます。

その場しのぎの斜め知識で書いた六四天安門事件の記事ですが、今の状況を読み解く上で、この件は中国だけではなく、各国で向き合った方がいいと考えております。何故、反日政策が江沢民時代に始まったのかというのを読み解く上でも必要だと思います。